FROM PARIS

加藤紗里以上?!ラ・パイヴァ侯爵夫人の館

今日のパリ2月3日

実家では、落花生(からまめ 方言?)で豆まきをしておりました。

日本列島西側は大豆で豆まきと知って、片付けが大変ではないのか?とふと思っております。

鬼は外 福は内

さて、日本は節分、パリはクレープの日(2月2日)です。

以前ブログにも書きましたのでこちらご参考ください。

過去記事「恵方巻の次の流行はこれだ!「シャンドラ―」

La Chandeleur(ラ・シャンドラー)と言ってクレープを食べる日なんですよ。

フランスっぽいですねー

そんなパリの2月。雨がしとしと降って湿気で髪がもじゃもじゃとなり、美容院へ行ってきました。

私の剛毛の髪の毛はネコっ毛のでとーっても柔らかい髪質ばかりのフランス人を扱う美容師さんには扱えないだろう、

との予想でパリに来た時からずっと日本人の美容師さんに切ってもらっております。

先日はカラーもしました。待ち時間の間、日本の雑誌を見せてくれまして、こりゃ嬉しい!

「Preciousプレシャス」という雑誌でした。

パリを紹介するページがあり、日本のこういった特集ではパリに住んでいても知らないところが掲載されているので、

とても楽しみです。こんな記事を発見。

【Hôtel de la Païva ラ・パイヴァ侯爵夫人の館】

へーーシャンゼリゼにこんなことろがあったんだ!しかも土日しか開いてないなんて!

parisienne

ところで、パイヴァ侯爵夫人って誰?

========================wikipediaより======================

エスター・ラフマン(Esther Lachmann、1819年5月7日 - 1884年1月21日)は、

19世紀フランスで最も名を馳せたクルチザンヌ(高級娼婦)である。

後にパウリーネ・テレーズ・ラフマン(Pauline Thérèse Lachmann)

ヴィロン夫人(Mme Villoing)

パイヴァ侯爵夫人(Mme la Marquise de Païva)

ヘンケル・フォン・ドナースマルク伯爵夫人(Countess Henckel von Donnersmarck)

と名を変えた。ラ・パイヴァ(La Païva)という通称で知られている

エスターはモスクワのゲットーに疎開していたポーランド系ユダヤ人家庭に生まれる。

1836年8月11日、17歳で彼女は仕立て屋のアントン・ヴィロンと結婚。

彼らは息子を一人もうけたが、エスターは貧しい結婚生活を捨てて単身パリのサン・ポール寺院にほど近い

スラム街に移住し、

名をテレーズと変えて裕福な求婚者を見つけようとした(以下、テレーズと記述)。

→加藤紗里みたいですね(笑)!!

彼女はピアニストのアンリ・エルツと出会って愛人になり、芸術的ではあるが貴族的ではない階級に加わった。

彼らはロンドンで結婚したと言われているが、事実はつまびらかではない。

いずれにせよ、重婚だった。

テレーズとヘルツの間には娘が一人生まれたがテレーズの浪費で(どんだけお金に執着が。。。)

ヘルツの家計は危うく破綻するところだった。

そこでヘルツは商機を得るために1848年アメリカに渡った。

夫が家を離れている間も彼女の浪費は続き、失望したヘルツ一家は彼女を追い出した。

テレーズはホテル・ヴァリンに居を構えた。

彼女の友人エステル・ギモンは彼女に沢山の衣装を携えてロンドンへ行き成功の道を探ることを勧め、

彼女をカミーユ帽子店へ連れていった。

コヴェント・ガーデンでテレーズはスタンリー卿の好意を射止めた。

テレーズはパリへ戻った後バーデンの湯治場に赴き、

そこでポルトガルの侯爵、アルビーノ・フランチェスコ・デ・パイヴァ=アラウージョに出会った。

最初の夫は既に結核で亡くなっていたため自由の身となっていた彼女は1851年6月5日に侯爵と結婚し、

財産と称号、そしてラ・パイヴァというあだ名を手に入れた。

後日、オラス・ド・ヴィエル=カステルは彼女が夫に語った言葉を記している。

「あなたは私と寝たかったから、私を妻にすることでそれを叶えたのよね。

あなたは私に家名を与え、私は昨日の夜で義務から解放された。

私は正直な女性のように振る舞ってきた。私は地位が欲しくて、それを手に入れたわ。

でもあなたが所有しているのは妻という娼婦なの。

あなたは私をどこにも連れていけいないし、誰にも紹介できないわよね。

だったら別れましょう。ポルトガルに帰ってちょうだい。

私はここに残ってあなたの名前で娼婦を続けるから」

侯爵は本当に彼女を残してポルトガルに帰国してしまった。

→すげー話だな。。。「私はここに残ってあなたの名前で娼婦を続けるから」」って。。。おい!

結婚は1871年8月16日まで解消されなかった。そして侯爵は1872年に拳銃自殺した

彼女が次に籠絡したのはプロイセンの伯爵、グイド・ヘンケル・フォン・ドナースマルクだった。

彼女はドナースマルクと1871年10月28日に結婚した。

→あれれ?1871年8月16日まで結婚は解消されず、次の結婚が解消後の2カ月弱後!!?

彼のお金でテレーズはシャンゼリゼにピエール・モーガンがデザインを手がけたエレガントなホテルを建築した。

ヴィエル=カステルによれば、彼女はお決まりのように

200万フランのダイヤモンド、真珠、および他の宝石を身につけていた言う。

ホテル・パイヴァは第二帝政の象徴となり、「当世風」の見本となった。

テレーズとドナースマルクはスパイ活動の容疑でフランスから追放されることとなった。

彼女はノイデックにある居城で1884年1月21日に65歳で亡くなった。

彼女の遺体はドナースマルクによりアルコール漬けにされ、彼が1887年再婚した後も彼の城で保管された。

========================wikipediaより======================

清楚な顔からは全くもって想像できないお金に執着のある女性、ラ・パイヴァ。

“年収〇千万ある男性でないと結婚したくないわ!”と言っている2000年代の女性なんて可愛いもんです。

なんてたって、貧しいからって旦那と子供を捨て単身パリに来たんですから!

と、そんな「Hôtel de la Païva ラ・パイヴァ侯爵夫人の館」ですが、

2016年にはmiu miuのショーが開催されたり、

purepeople

画像を見ると何やらとても気になるところ。

場所はシャンゼリゼのFranklin D. Roosevelt駅よりの、

よくガラスが割れている(笑)ブルーのファザードのカフェのすぐ横です。

「Preciousプレシャス」の記事によると単純な入場料は10ユーロ、ガイド付きは20ユーロとなっています。

google に「Hôtel de la Païva 」と検索すると次の予約が4月までない?!

行きたいと思ったらすぐ行きたいので、4月なんて待てない!

さらにカタカタ検索していると、見つけました見つけました!

【Billet réduc】  https://www.billetreduc.com/

チケットを格安で販売するサイトです。

以前サーカスに行った時にもご紹介しました。

(一見怪しそうですが、これまで3、4回使っております。

トラブルなく時には70%offくらいでチケットが見つかるので嬉しいサイトです)

タイミングよく2月8日に空きがあったので(それでも残り3席のみ!!)すぐ予約しました。

破天荒な人生を歩んだ、

「Hôtel de la Païva ラ・パイヴァ侯爵夫人の館」

楽しみです。

À demain


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ロゼエクストラ
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